自己想起

ちょっと自己想起について書いてみます。

自己想起の前に、まず自己について。

主に精神分析や分析心理学などで「自己」と呼ばれるワードがよく出てきます。

Wikipediaによれば

”主体としての自己はあらゆる行動や思考の原点であるが、客観的な自己は物質自己、精神的自己、社会的自己の3つから構成される”

とのことで、恐らく使われる文脈によってまちまちな理解の起こる言葉ではないかと思われますが、精神分析などで使われる[自己=self]は、”あらゆる行動や思考の原点”として意識される自分自身と解釈できそうです。


その意味合いを持って、では自己想起って何だろうと考えると

”その行動や思考の原点である自己を想起する(=思い出すこと)”

と言うことだと理解できそうです。


ではどうやるのか・・・今読んでいる本にはこのように書いてあります。


〜以下 松村潔著 「意識の10の階梯」より抜粋〜

『ところで、グルジェフの方法論と禅はよく似ている面があると言われることが多いので付け加えておきたいことがある。グルジェフのいう「自己想起訓練」は、例えばある一定時間、わたしというものが存在するかどうか疑うところからはじまる。

わたしを意識する時だけ、わたしはいる。しかしそうでない時には、さまざまな興味のある印象に自己同一化してしまい、わたしは存在しない。考え事をしている時も、わたしは存在しない。』


自己想起していない時に人は何かに自己同一化している・・・と言うことですね。


これは玉ねぎの皮を剥いていくような行為だと昔から思っています。私の世代が子どもの頃は、養育者や身近な大人の言うことを聞くことがよしとされる、というかそうでなければならない、それ以外に生きる道はなし・・・。と言うような時代だったと感じていますし、もちろんそれは今の時代もそのように教えられることがあるわけですが、これが自己同一化の大きな第一歩であってその頃に教え込まれたことは骨の髄にも染みわたり人間の一部を為しているようなところが誰にでもあります。

自分がどう思ったか?ではなくて、これはこういうものだよ!という年長者からの教えです。

(教えというか、押し付けというか・・・)


次にこんなことも書いてありました。

『対象物への自己同一化、対象物を見た時に自動的に生じる連想イメージへの自己同一化から自由にあり続け、正念を相続し続けるには、自己を意識することをますます要求される。グルジェフのいう、行為している自分を意識し、さらにそれを意識し、という自己想起は、実は二念三念四念と継続する行為でなく、二念三念四念などを消去し、正念に戻るためのダイナミックな行為を表している。』


何かが起こった時や、何かを見た時に人は自動的な連想のイメージを持つことが多いです。

そしてそれはパターン化されます。

例えば泣いている人がいる→可哀想な人だ→不幸なことがあったのだろう・・・etc

(↑ちょっと単純すぎますが、、、他に思いつかなかった)

これはもう多くの人がこのようなパターンを何百種類?それ以上に持っていて、そのパターンを持ち続けたまま同じことのループを頭の中でただ繰り返して、日々をこなし死んでいくのではないか・・・とさえ思っていますがこれこそが自己同一化でしょう。

この連想のパターンから抜け出して、

あ、またこんなパターン化思考をやっちゃってたよ自分。

と我に帰るのが自己想起の恐らく第一歩ではないかと思います。

で、こう感じた自分ってどんなんだったっけ?と思い出すのです。

感じている自分を見ている自分。そこに自己があるとグルジェフは言っているのですね。


意味づけに意味はなく、ただそれを見ている意識が根本の自己なのです。


『まず、われわれには何者にも染まらない無の意識があった、というのは下降するオクターブの特徴である。反対に、まずわれわれは環境の持ち物だった、というのが食物水素エニアグラムの上昇オクターブの特徴だ。環境との渾然一体とした自己同一化状態から、何者にも所有されない自己を切り出してゆかねばならないのが、上昇オクターブの流れであり、わたしたちはこの後者の行為を続けねば、根本的自己には到達できない。』


今時の子どもたちはやっぱり昔とは少し変わって来ています。時代や人々の思想もどんどん変化していますが、その中でも子どもってやはり時代の先取りのような、いつも最先端の存在じゃないかと感じます。

不用意な大人の価値観の押し付けは意味がなく、それはまさに自己同一化した大人を量産することになるのが明白です。

子どもたちの感性を拾って、伸ばしていける環境が広がるといいなと思っています。

それが自己に一番近いのですから。

その意識で生きることがどれだけ尊く、大人になったわたしたちには得難いことなのかと、凝り固まった大人を見て(もちろん自分も)思うのです。







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konohanaの徒然日記

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