初めての九州・初めての災害

 

前回↓からの続き

 東日本大震災が起こった年の10月、当時5歳と3歳の娘たちを連れて九州へと引っ越してきた私たち家族・・・。同じ日本とは言えどまだこの時はスマホも持っておらず、まさに右も左も分からない状態でした。

 夫はその頃南九州の3県を管轄するという役職だったため、月の半分は出張でほぼ家におらず、娘たちの保育園や幼稚園を片っ端から電話帳を広げて探すも撃沈の日々・・・。

地元にいた頃は下の子が未満児の頃からパートに出ていたので、その感覚ですぐに働こう!などと思っていましたがこれはどうも難しそうだ・・・と言うことにこちらに来てようやく気がつくことになります。

こちらに来てからは、見るもの聞くもの全てが目新しく、娘たちを連れてはあちらこちらへと出掛けて行き、毎日が新鮮な驚きで満ちていました。

 ”なんて豊かな土地だろう”というのが最初の印象でしたが、その”豊かさ”とはこう言うことをも含んだものなんだということをここから約9ヶ月後に知ることとなります。

 翌年の7月に水害が起こりました。今回は少し長いです・・・

(※少し細かく時系列で書きますので、災害に思い入れのある方は読むのをお控えください)

 7月11日の夜、その日夫は出張で翌日に帰ってくる予定でしたが、何故か(仕事が早く終わったのか?)1日早く帰宅し皆でいつものように2階の寝室で就寝しました。その日の夜はものすごい雨で、豪雨に慣れていない私は不安になって夜中に何度か目が覚めるほどでした。そして朝方の5時過ぎにお隣に住んでいた方が(当時は2階建ての1軒家に住んでいました)チャイムを何度も鳴らす音で目が覚めました。

玄関を出るとお隣さんが『雨がすごくてこの辺りはもしかしたら浸水するかもしれないから、車だけでも高い場所に避難させておいた方が良い』と報せに来てくれていました。

すぐさま夫を起こし、車を高い場所にある道路に避難させました。

そしてお隣さんによれば『この辺りの自治会長が言うには、浸水しても床下にしかならないだろうと言うことだから家の中にいれば大丈夫だよ』とのことでした。

豪雨災害なんていうものとは無縁の場所で生まれ育ったので、その頃の私たち夫婦には”浸水”というものがどういうことを指すのかすらよく理解できていなかったと思います。

そして「今日は雨が酷いので幼稚園はお休みです」という幼稚園に入って初めての連絡網がちょうど回って来ていたため慌てて次の方の連絡先を探していた時に、窓から外を見た夫が私に向かって叫んできました。

『道が川になってる!やばい!逃げるぞ!』

しかし、そのヤバさにピンと来ていない私はとにかく連絡網・連絡網と連絡網の紙探しを優先させていました(その間も夫は叫んでいました・・・)

何とか連絡網を回して窓の外を見ると、確かに道はすでに無くなっていました・・・。

慌てて貴重品をリュックに詰め込み、リュックの上から娘たちをおぶり、2人で外に出ましたが、一歩駐車場から出るともう水が膝くらいにまで来ていました。(しかも流れが速い)

早朝に避難させた車のところに上がるまでは、その前に道が陥没して低くなっている箇所を通らねばならず、ここで膝ぐらいまでの水と言うことはその場所では恐らく股下くらいになるだろう、そうしたらリュックと娘たちをおぶったまま無事に上まで上がれるのか分からないと言う結論になり、一旦家の中に戻りました。

 しかし、水かさはどんどんと勢いを増していきます。どうしたら良いのか、何が正解か分からない私たちはもう一度「やっぱり逃げよう」と同じように娘たちをおぶって外に出ましたが、緊迫した状態を察知した上の子はパニックになり泣き叫んでいました。

泣き叫ぶ上の子をを抱えながら何とか道に出たはいいものの、その時点で腰より少し低い位置まで水かさが増しており、これはもう逃げるのは不可能だと悟り今度は意を決して家に戻ります。

そして玄関の扉を閉めた瞬間、扉の隙間から家の中にもドっと水が入って来ました。

子どもたちを2階に残し、夫婦2人で大事なものと金目のもの(笑)と水と食料をとにかく2階に上げようと動きました。

そこからものの2〜30分で水は1階の天井にまで達しました。

冷蔵庫は倒れ、横倒しになった冷蔵庫が水で揺られて1階の壁にドン!ドン!とぶつかりその度に家が小刻みに揺れます。そしてそのままガラスを突き破って、家の外へと流れ出ていくのを2階の窓から眺めていました。

周囲の家や倉庫も倒れて流れて行きます。救助のヘリが何度かやって来ましたが、ヘリ1台につき1名づつしか上げられないため、救急へ何度か連絡して「子どもたちだけでもヘリで助けてもらえませんか?」とお隣の方と一緒に尋ねていましたが、「順番に行きますのでお待ちください」としか言われませんでした。

(後で知ったのですが、まだ自衛隊の派遣要請が出ておらず地元の消防のヘリしか出動できない状態だったのだそうです)

どんどんと水は迫ってくるのに何もできず、手と足はずっと震えたままで、深呼吸をしても(それこそランエナをしても)落ち着くと言うことはできませんでした。

子どもたちには、「もしヘリが来たらあなたたちから上げてもらうから、そうしたらもう大丈夫だから、ママとパパは後から必ず行くからそこで(ヘリで)泣き叫んではダメ」と言って聞かせるのが精一杯でした。

(その時の映像↓)

 なす術なくただ窓の外の濁流を眺めながら何時間か経った後、雨が小康状態になっていることに気がつきました。

”あ、もしかしたら助かるかもしれない・・・”

と思い始めてから少し経ち、そのまま雨はスーっと止みました。

2階のフロアまであと2段↓というところまで水が迫っていた時でした。

そこからまた何時間か経過した後、ボートに乗った救助隊の方の声が外から聞こえて来ました。

『誰かいませんかー?』

夫は

『ここに子どもが2名います!』

と大声で叫んでいました。

やっと ”もう大丈夫だ” と思った瞬間でした。


 家の中の水が引くまでしばらく待った後、家の裏側にあった塀をよじ登りそこで待っていてくれた救助隊の方に助けられました。

靴も全て流されていたので、全員靴下で泥の道を歩き必要最低限の貴重品のみを持って避難所へと向かいました。

その時下の子を抱っこしてくださった救助隊の方↓が本当にカッコ良く頼もしく見えました。


 九州へやって来て約9ヶ月目のこの出来事から、私たち家族はジェットコースターのような日々がまだしばらく続くこととなるのですが、長くなるので次回へ続きます・・・。


衝撃映像のような画像が続いたので、ほっこりサンセット(サンライズ?)も貼り付けておきます


iromogusa

ものぐさ兼業主婦の徒然草

0コメント

  • 1000 / 1000